世界は広く、読むべき本に満ちている 『モロッコ流謫』

世界は広く、読むべき本に満ちている 『モロッコ流謫』

なんとはなしに読み始めた本に描かれた世界の美しさに魅了されて、それまで見ていた景色と読み終わってからの景色が変わってしまうような経験がたまにある。私にとって、この本がそうだった。

搭乗した飛行機が青く輝く地中海を見下ろしながら、北アフリカの西端、ジブラルタル海峡を望むタンジェに着陸するところからプロローグは始まる。

タンジェ、フェズ、マラケッシュ、ワルザザート。モロッコのさまざまな都市をめぐるこの紀行文は、ニューヨークに生まれ、モロッコに魅入られその地を終の棲家とした作家ポール・ボウルズ、同時代の文学者たちの物語が中心となっている。その作品に描かれたモロッコ。彼らが見たモロッコ。ボウルズの書籍を日本に紹介した訳者でもある著者とのいくつかのエピソード。

地図とマティスの絵画を除いては写真も挿絵もない文章から、モロッコの強烈な日差しや喧騒が立ちのぼる。訪れたこともないアラブの市街地を歩き、蜘蛛の巣のような小路に入り込んでいく感覚。

メディナのスークを歩くとは、数メートルごとに切り替わる香りの領域のなかを、次々と移行してゆくことだ。ミントの香り。生暖かい湯気とともに、食べ物を煮ている香り。革製品の香り。蜂蜜とその表面に被せる蝋の微かな香り。捌かれて血を滴らせている羊の肉の香り。揚げ物の油の香り。店先に何十もの小山のように積み上げられた香料。その香りと色合い。ターメリックの黄色。トンガラシの赤。クミンの枯れ草色。シナモンの茶色。さらに夥しい種類の豆の色。色とりどりに詰め込まれたオリーブの樽。

第三章「砂と書物」が圧巻だった。1575年に建てられた聖者廟をルーツとするザーフィヤ・ナーシーリヤと呼ばれる砂漠の図書館。コーランはもちろん、天文学や代数学、科学、アラビア語とトルコ語、ベルベル語など、さまざまな言語の辞書。砂塵の舞う中、数百年もの間、受け継がれた文字の歴史。

ボウルズの書物に導かれたモロッコの旅は「世界の記憶とも呼ぶべき図書館に遭遇した時点で」終わりを告げる。

私たちはどこからきたのか。どこへ行くのか。

そのような問いを抱えながら、ある者は流謫し、ある者は地にとどまる。日々を生き、ものを食い、酒を飲み、言葉を吐き出し、ときに物語を紡ぎ、埋葬される。その墓碑が風化しても、文字は砂漠の奥深くにも刻まれ、受け継がれていく。